2012年8月14日火曜日

流れだす自己(self)-3


・ラバーハンド・イリュージョン

 ラバーハンド・イリュージョン Botvinick & Cohen, 1998)は、きわめて簡潔な方法で体性感覚とよばれる自己の身体にたいする定位感に変容をもたらす。ゴム製の手の模型が、己の手のように感じられてしまうばかりか、ゴム製の手から触感覚を感じるにまで至る奇妙な体感である。
(ラバーハンド・イリュージョン: http://www.youtube.com/watch?v=TCQbygjG0RU

 被験者は、イスに腰掛け、テーブルの上に自身の手を置く。テーブルの上にはパーテーションが設けられていて、自身の手は自分から見えない位置に隠され、自分から見える位置にはゴム製の手が置かれる。その状態が実験の基本的なセットである。実験者は、被験者の手とゴム製の手とに、それぞれタイミングを同期させて同様の刺激を継続して与える。その間、被験者はゴム製の手が刺激を受ける様子だけを見つづけるよう求められる。そうしてしばらくすると、ゴム製の手が自らの手のようにありありと感じられるようになってくる。果てには、ゴム製の手のみに刺激を与える様子を見せるだけで、そこから触感覚が生じるようにまでなる。

 視覚と触覚が協応(マルチモーダル)して、一つの「私」という現象が生じる。そこにどのようなメカニズムが働いているのかを考えるとき、このラバーハンド・イリュージョンはとても示唆的である。視覚情報は体性感覚より優位であると考えられ、能動的なまなざしが「私」という現象を率先して構成する。それは容易に、自らの肉体から流れだす自己である。身体の唯一性がゆらいで、いま現にある肉体が別のBODYに流転するような想像力を掻き立てられる。
 ロボット研究者の國吉康夫はこのラバーハンド・イリュージョンについて、「近づいてきて……(視覚)、感じる(触知)。」というように、視覚(vision)と触覚(tactile)のマルチモーダル間の時間構造が要点だとみているようだ。そうした時間構造さえ再現されれば、別の身体に自己同定することもおこりうる、ということである。


 ・自動車運転と鏡像

 筆者も、日常生活のなかでこの現象に類似した経験がある。自動車を運転しているときにそれは起こった。自動車がまるで自分の身体のように感じられたのである。
 私が運転している自動車は、ツーリングワゴンのタイプで、近年は少なくなったいわゆるマニュアルトランスミッション、つまり変速機を手動で操作する。そのため、運転では四肢がそれぞれ異なる役割を担うことになる。右手はハンドル、左手はシフトレバー、右足はブレーキ・アクセル、そして左足はクラッチペダル、といった具合にやや複雑だ。それに加えて、移動にともなうオプティカルフロー(光学的流動)の知覚と身体にかかるG(加速度)、それらが協応して、自動車運転という運動感覚を形成している。この車を運転してもうかれこれ6〜7年になる頃の話だ。

 街を走っているとき、交差点の赤信号で停まった。信号の側方には全面ガラス張りのコンビニエンスストアがあり、なんの気なしに店の方に目をやりながら、その前を横切りつつ減速し停車した。ポイントは、その一連の車の動きが店のガラスに映りこんでいたことにある。
 車を運転するという行為において、通常その視点のあり方は内在的である。自分が運転している姿をあらためて見るということは、まず無い。鏡の前に立ちイメージトレーニングをする、というような視点が外部に開け放たれた運動ではないのだ。ところがその時は、そうした視点が不意に反転したのである。
 そのガラスを見た瞬間、運転操作と減速でかかるGによって身体に立ち現われる移動感と、ガラスに映っている自分の車の運動イメージとが協応して、その車が「私」になった。ほんの一瞬だが、鏡に映りこんでいる車のイメージや車中のインテリア(内皮)に体性感覚が憑依したようだった(またたく間にその状態は解け、ふたたび自らの肉体に自己は凝集したけれども)。
 この経験でも、鏡に映る身体イメージとそれに伴う体性感覚とのマルチモーダル間の時間構造が、流れだす自己(self)を現象させていると考えられる。たとえば鏡の前で歩くときは、歩調や風あたり、光景の変化と鏡像の運動イメージは一定の変化率で同調する。運動イメージだけが少し遅延するということはありえそうもない。人間はこの同調の変化率を、(まさしくラカンのいう鏡像段階から)発達とともに少しずつ獲得してきているのではあるまいか。その変化率こそが鏡像を前に運動する自己を同定するものであり、車の鏡像イメージと運転という運動感覚にアナロジカルに転化したのではないか、ということである。

 生身の肉体でさえ、そこから自己(self)は流れだしていってしまう。視覚情報が、体性感覚をつくりかえてしまうことがあるからだ。しかしながら、触覚にも「私」の不変さ(invariant)を獲得するようなモードがあるように感じられる。流れだす自己(self)をその身で感じながら、いっぽうで、私は私であるというような感取も同時に持っている。それはいったい何によっているのだろうか?

村山悟郎